境内

本堂

本堂に安置されている阿弥陀如来像と菅原道真公像

菅生寺本堂は、ご本尊阿弥陀如来をはじめ、不動明王、弘法大師、役行者をお祀りしています。

昭和27年の奈良県による調査報告より

ご本尊の阿弥陀如来像は寛文時代(1664年)の制作で、像高二尺三寸、桧材の寄木造り、内側を施し布張りの漆箔で、肉身は粉溜、玉眼をはめ、髪を描き、口唇に朱を施す。螺髪は旋毛を刻み髪際で二十八粒を数える。像底は揚底に造られ漆を塗って、ていねいに造られている。眼は俯瞰の相をもち、口は力を入れて結び、頬豊かに相好は特に慈愛にみち、両臀を強くはって蓮華台上に結伽趺座しておられる。衣文の彫り深く、その配列甚だ変化に富み、一見鎌倉佛ともみえるもので、徳川初期のものとしては上々の出来栄えである。箔押の七重蓮華座にはその中心柱に左の墨書があり、台座中心柱は四角の棒の四隅を面取りし、径一寸長さは二尺三寸五分桧材である。正面の上部に弥陀の種子キリークを置き其の下に

和州吉野郡竜門菅生寺阿弥陀如来座像、当時ノ住寺石川ツハノ、住ソタチハ金剛山、大宿坊内阿闍梨権大僧都俊海
○向って左側 梧重悪人無い他方便称弥陀徳生梧楽父母成佛出家弟子宗識並ニソク弟子等四郎巳ニ御縁アリカタキコト
○向って右側 寛文四甲辰暦初五月十五日大仏師法敬南都之住志賀村松室五郎左衛門待之トキナリ
○法量 像高 二尺三寸三分  台座高 二尺二寸一部 光背高 四尺二寸七分

当寺には竜門寺同様天平佛があったはずだが、それを失いこの時代に本尊を、南都の大仏師法敬にたのんで製作安置したらしい。大檀那志賀村の松室氏と俊海大僧都。この時期にも何度目かの復興が行われたらしい。

ぼけよけ地蔵尊

昭和63年に和歌山県、奈良県、大阪府の三宗五派の寺院24ヶ寺が集まって、「ぼけよけ二十四地蔵尊霊場」が開創されました。

菅生寺は、第13番札所として、ぼけよけ地蔵尊をお祀りしています。

地蔵尊ぼけよけ二十四霊場公式サイトはこちら

おたすけ大師(88番)

天満宮

菅生寺には、菅原道真がこの地で生まれたという伝説があり、境内には天満宮が祀られています。

菅公生誕の伝承は定かではありませんが、吉野町山口に残された上田家文書によれば、文政13年(1830年)の伊勢神宮おかげまいりの善根宿の旅人に、菅公産湯の池、ご両親の墓など龍門名所の案内をしたと書かれています。

菅原道真公詩碑

遊龍門寺 菅公

随分香華意未曽
緑蘿松下白眉僧
人如鳥路穿雲出
地是龍門赴水登
橋老往還誰鶴駕
閣寒生滅幾風燈
樵翁莫笑帰家客
王事営々罷不能

訳:応文の香花をたむけたいと思いながら果たすことができなかった
  緑のつる草の垂れる松のかたわら、白い眉毛の僧
  人はあたかも鳥路を行くがごとく、雲をかきわけてあらわれる
  ここは龍門たぎち流れる水を追って登って行く
  古びた橋を渡ると仙人の乗り物である鶴の羽のようだ
  きこりのおじいさんよ笑わないでおくれ家路急ぐ私を
  政務に多忙でここでゆっくり休んではおれないのだ

菅生寺説明板より

菅原道真は、昌泰元年(898年)10月26日、宇多上皇に供奉して龍門寺に参詣し、この詩を詠みました。この詩には、龍門寺の風景に感激しながらも、仕事が忙しく、長くはいられない名残惜しさが歌われています。

そのときに書いた道真直筆の詩は、龍門寺がなくなってからも、別院の菅生寺のふすまに書き残されていました。

弁天堂

御室御所から復興を懇請された吉野山桜本坊五十一世快済法印は、復興にあたり、別に一堂を造り

白山大権現を勧請し
天河弁財天 役小角行者
大峯蔵王大権現 岩屋不動尊
川上地蔵尊 聖宝理源大師

を御まつりしました。

墓地

五輪塔(奈良県指定文化財)

鎌倉時代の建造と推定される、当地では最大最古の五輪塔です。開祖義渕僧正墓塔と伝えられています。

文化年代調製の菅生寺過去帳の序文に「・・水輪の中の納物あり・・」と記述があり、昭和4年1月25日の調査にて

  • 銅製の蓮花台上の舎利器
  • 大小の舎利12個
  • 水晶玉2個

が発見され、阪本千代氏の蔵に護持されました。

その後何度も五輪塔内に戻す計画がなされましたが、盗難の危険から果たせず、国立奈良博物館へ預託され、博物館創立八十周年特別展で展示され、重要美術品の折紙をつけられました。

昭和55年にはじまった三條妙節師師による復興にあたり、舎利器をあるべき処に戻す事が妥当と考え、博物館の諒解のもと57年7月7日、博物館阪田技官、奈良県教育委員会文化財保存課紺野技師などが御持参、保存会よりは上田、木本、寺側藤門総代、三條師立ち会いの上、受け取りが行われました。

その際、阪田技官より、舎利品はいずれ重要文化財として指定されるものであるから、舎利は別の容器に入替えて埋納、容器は別に保管するようにとの指示を受けたので、本堂仏前でおまつりすることになりました。(現在は国立博物館に貸与しています)

さらに昭和58年3月3日には、解体補強工事中の五輪塔から骨壺が出土、青磁の四耳壷には火葬した40歳から50歳位と推定されるお骨が発見されました。そして4月、お骨は中川善教師寄進の壷に入替えて元の位置に、舎利は水谷醒洋師製作寄進の容器に入替えて五輪塔水輪に埋葬されました。

出土の壷と舎利器を前に文化財委員(向って右側の壷は代替容器)

慶円上人笠塔婆

この碑はもと西山中腹にありましたが、戦時中開拓地となり倒伏していたのを、終戦後保存会が現在位置に移しました。碑面には次のように刻まれています。

行年八十四 貞応二癸未正月廿七日御入定
当寺本願 慶円上人御廟也
四代弟子 昭海 建武二丙子正月廿七日造之

中祖開山 快済法印墓塔

寺再建主 桜本坊五十一世 八十才此地に死去 水田の底部より遙に深く葬る。

碑面
法印快済 菅生寺再建立 僧名恵博坊
文化十三丙子年十二月十七日 八十一才

再建協力者清林墓塔

心誉功徳清林比丘尼 文政八乙酉十一月 十五日 上田姓

菅公両親の墓

四国八十八霊場石仏

八祖大師

インドから中国を経て日本へ真言密教を伝えたとされる8人の祖師をお祀りしています


八祖大師

龍猛菩薩(りゅうみょうぼさつ)
密教の伝承を初めて受けたとされる第一祖。龍樹菩薩とも呼ばれます
龍智菩薩(りゅうちぼさつ)
神通力に優れ、長寿で知られる第二祖
金剛智三蔵(こんごうちさんぞう)
龍智菩薩から七年間真言密教を学び、中国に密教を伝えた第三祖。
不空三蔵(ふくうさんぞう)
金剛智三蔵に学び、唐代に真言密教を広めた第四祖.。
善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)
インドの王族出身で、「大日経」を漢訳した第五祖。
一行阿闍梨(いちぎょうあじゃり)
善無畏三蔵の翻訳を助け、天文学にも優れていた第六祖。
恵果阿闍梨(けいかあじゃり)
不空三蔵に見出され、真言密教を統合した第七祖。空海の師となる。
弘法大師(空海)
恵果阿闍梨から真言密教を伝授され、日本に真言宗を興した第八祖。

 

庫裡

昭和の復興の際、三條妙節師は、龍門寺開祖義渕僧正が幼少の頃天智天皇に養育された故事をしのび、歴代天皇のご供養を決意し、肖像画の第一人者であり、大日本肖像美術協会総長をつとめる馬堀法眼喜好画伯に揮毫を要請しました。そして、馬堀画伯より、神武天皇より百二十四代の御真影が寄贈されました。

馬堀法眼喜好画伯(1907-1999)

馬堀法眼喜孝(1907年–1999年)は、神奈川県横須賀市に生まれ、生涯にわたり肖像美術の世界に尽くした画家です。昭和4(1929)年明治天皇即位御肖像画謹画、昭和5(1930)年に皇室のリストアップした画家の中から選ばれ、以降皇室の御出入りが許されました。昭和25年(1950年)、日本における肖像芸術の振興を目指し、「日本肖像美術協会」を創設。人物の内面までも描き出す肖像画を通じて、日本の美術界に確かな足跡を残しました。

馬堀氏の功績は芸術にとどまりません。自身の資金で静岡県大須賀町にアトリエを設け、全国から身体に障害のある若者たちを迎え入れ、絵画を指導。絵を通じて生きる希望と誇りを与えようと尽力しました。

また、人道的な活動のひとつとして特筆されるのが、1972年に殉職した216名の警察官の肖像画を一人ひとり丁寧に描き、遺族に贈呈したことです。警察官友の会の理事も務め、社会への深い敬意と共感に満ちた人物でもありました。

その代表作には、日本の旧紙幣に使用された聖徳太子(旧一万円札)、岩倉具視(旧五百円札)、伊藤博文(旧千円札)の肖像原画があり、いずれもその緻密な筆致と精神性の高さが評価されています。ほかにも『日本国歴代天皇御真影図』や『世尊寺渋手大黒天』など、歴史や信仰に根ざした作品も多く手がけました。

馬堀法眼喜孝は、絵画を「生の尊厳を描く行為」として捉え、人間への深いまなざしを持ち続けた画家でした。その作品は、単なる似姿を超え、記憶と敬意を未来へと伝える肖像美術の粋といえるでしょう。

多宝塔