菅生寺は推古天皇、天智天皇、後醍醐天皇の勅願時といわれ、奈良時代の名僧義渕僧正が龍門時と共に今から1300余年前に天下の霊峰龍門山の麓に建立された由緒高い名刹であり、建保年中(760年前)の学僧、慶円上人が此の寺に住み大般若経、大乗経などを書写しています。
創建当初は興福寺、岡寺などと同様義渕僧正の伝えた法相宗、のち真言宗京都の御室御所仁和寺の末寺となり、現在は高野山に所属しています。
千年以前学者として有名な菅原道真がここで生まれ育ったという伝承が幕政時代に伝わっておりました。龍門名所として菅公生誕の地、菅公両親の墓などと記載した古文書ものこっておりますが、併し菅公の生誕地は奈良近くの菅原ですので、ここは単なる寺名から発生した伝承かもしれません。
しかし、菅公は清和上皇に随行して龍門寺に詣でています。菅生寺の庫裡のふすまに
「人如鳥路密雲出 地之龍門遂水登」(人、鳥の路のごとく密雲より出で、地の龍門を遂うて水に登る。=人は、まるで鳥が空を飛ぶように厚い雲の中から現れ、この地の龍門を目指して、水をさかのぼって登っていく。)
という自作の詩が残っていたようです。龍門寺別院龍華台院として栄えたこの寺も、龍門寺の衰運と共に同じ運命をたどります。永生3年火災にかかり以後何回か再建されましたが、昔日の面影はなくなりました。
徳川中期、御室御所では由緒ある菅生寺の再建復興を吉野山桜本坊に懇請します。桜本51世の快済法印は天明2年46歳で弟子に寺を譲り、平尾に移住してその復興にとりくみます。当時、菅生寺は荒廃その極に達し、その上谷窪に位置していましたので東側の山を削り台地を造成して、そこに新築する計画をたてます。
天明4年(1784年)から寛政9年(1797年)まで13年の大工事だったのです。その費用は莫大なものですが、殆ど桜本坊と篤志家によってまかなわれました。
復興事業が完成して11年後の文化5年、龍門時開山義渕僧正と、中興開山慶円上人の追悼法要並びに落慶法要が営まれました。その時の板札が上田家に残っています。
○天智天皇勅願所当寺開基義渕僧正神亀5年より文化5戌辰年に至る(1058年)
○後醍醐天皇再勅願慶円上人大般若開く白貞応2年より文化5年相当(580年)
とかかれています。快済法印没後、尼寺となり清林比丘尼が継承します。
その後、磯城郡大福村出身の教海坊が加持祈祷で近郷の信認を得ましたが、あと、恵性さんという尼さんが大正の始めまでお寺を守りました。その後、埼玉県出身の横堀智禅尼が永住の目的で相当の資財を提供し屋根の瓦のしめかえ、内部の修理などに一苦労しましたが、どんな事情があったのか老齢にもかかわらずお寺を追われ行方不明になりました。その後独身の若い坊さんが一年程入住された後、大阪平野の松下覚全という方が、住職として療養をかねて住まわれたが、病状が悪化して二年足らずで寺を去られたようです。その後は無住となり、戦時中は疎開者が雑居し、寺山は学徒動員などで開墾食料のたしに生産に励んで居りましたが、戦後疎開者はそれぞれ転居しその後はPL教団が暫く寺を守ってくれましたが、最近では無住と化し廃滅寸前にまでなりました折り、不思議な仏縁と申しましょうか、篤志の方三條妙節氏がはるばる北海道からこの寺に入住される事になりました。
三條師は北海道小樽でかなりの信者に支えられた、霊感の持ち主の尼僧です。
昭和52年2月9日、50歳を迎えた三條師は、本格式に佛道修行の為100日の托鉢に小樽を出発しました。とりもつ不思議な縁で、当地藤門善次氏宅をその基点にした三條氏は、宿泊中、夢枕に立った尼僧から
「この近くの山際にある古寺を復興してほしい」
と頼まれました。夢から覚めた三條師が、藤門氏にそのような寺がありますかと尋ね、教えられて出かけた寺が荒れ果てた菅生寺でした。
そのときはそのまま托鉢の旅を続けた三條師でしたが、吉野、五条、伊勢、神戸、四国八十八カ所、淡路、高野山と旅を続けるなか、無事旅を終えて小樽へ戻っても菅生寺のことが心に残り、三年後の昭和55年より復興にとりかかり、巨額の費用を投入され、昭和58年4月21日立派に復興され往時の面影を再現することができたのです。

