670年頃 龍門寺成立。龍門寺別院龍華台院(菅生寺)。
馬堀法眼喜好「義渕僧正像」(「よしの龍門の名刹菅生寺」より)
龍門寺は、義淵僧正が龍蓋寺(岡寺)と共に国家隆泰、藤氏栄昌のために建立したと伝えられ、龍門山(竜門岳)の南斜面山腹にある龍門の滝の上に位置し、金堂、三重塔、六角堂、僧房などの伽藍が立ち並んでいました。別院龍華台院は推古天皇の勅願によって建てられたといわれています。
700年頃 葛野王「龍門に遊ぶ」を書く
葛野王(かどののおう/かどののおおきみ)は、壬申の乱で天武天皇に敗れた弘文天皇(大友皇子)の第一皇子です。「龍門に遊ぶ」は現存する最古の日本漢詩集「懐風藻」に収録されています。
866年 髙鉾神社祭神の髙皇産霊に従五位下『三代実録』
『日本三代実録』(にほんさんだいじつろく)は、宇多天皇の命で編纂された歴史書で、858年から887年までの30年間が扱われています。藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平らが編纂に参加しました。
898年 菅原道真・宇多天皇とともに龍門寺参詣
(「よしの龍門の名刹菅生寺」より)
道真がこのときのことを読んだ詩「遊龍門寺」を書いた直筆の襖が菅生寺に伝わっていたことが記す古文書が残っています。ほかにも、菅公産湯の池、ご両親の墓などを龍門名所として案内をしたと伝わっています。ご両親の墓は今も伝わっています。
927年 『延喜式』神名帳にて吉野山口神社、髙鉾神社小社に列す
延喜式は、平安時代中期に編纂された、律令の施行細則をまとめた法典です。
1023年 藤原道長龍門寺参詣
平安時代の歴史書「扶桑略記」によると、道長は、1023年10月17日に多くの貴族達を伴い、南都、吉野方面の寺社巡拝の旅に出かけ、10月19日に龍門寺を訪れています。
1218年頃 慶円上人による菅生寺再興
1348年 弁の内侍、西蓮華台院(西蓮寺)境内に草庵を結ぶ
水野年芳「楠正行弁ノ内侍を救ふ図」(東京都立図書館所蔵)
後醍醐天皇の後宮女官・弁の内侍は、その美しさから、足利尊氏の側近・髙師直にさらわれそうになったところを楠木正行に救われ、正行と結ばれましたが、四條畷の戦いで正行が戦死、彼女は吉野山の如意輪寺で髪を切り、西蓮華台院に入り菩提を弔いました。
1440年 龍門城落城
室町幕府を相手とした合戦で、一色刑部直髙城主の龍門城が落城しました。この戦には、南朝遺臣たちの幕府・北朝方への根強い抵抗が底流にあったようです。このときに龍門寺も焼失したのではないかと考えられています。
1503年 髙鉾神社前に石灯籠寄進。この頃髙鉾社降臨か?
石灯籠の銘は「文亀三癸亥 治良三郎」とあり、龍門城落城から63年後にあたり、髙鉾神社が岳山頂から降りられ、この地に鎮座されたときに寄進されたのではと推測されています。
1662年 西蓮寺建立
楠木家にゆかりがあり、長宗我部元親6男の文誉鉄牛上人は、荒廃していた吉野山・如意輪寺を復興したのち、弁の内侍を顕彰して西蓮華台院の跡地に西蓮寺を設立しました。
1688年 松尾芭蕉が龍門に来る
龍門を訪れた芭蕉は、平尾村の農夫の家に宿泊し、あたたかいもてなしに感銘を受けました。
大和の国を行脚しけるに、ある農夫の家に宿りて一夜を明かすほどに、あるじ情け深くやさしくもてなし侍れば「花の陰謡に似たる旅寝哉」
また龍門の滝では「龍門の花や上戸の土産にせん」「酒飲みに語らんかかる滝の花」
1716年 八代将軍徳川吉宗公が山口神社拝殿前に灯籠寄進
吉宗公は、和歌山から江戸まで参勤交代のときはいつも龍門大宮前の伊勢街道を利用し、大宮境内で休息をとることが多かったそうです。
1794年 本居宣長が龍門の滝を訪れる
国学者の本居宣長は、松阪より和歌山への旅の途中に吉野を訪れ、龍門岳に登りました。
「紀見のめぐみ」より
十二日龍門の瀧を立よりて見る
昔よりよよに流れて瀧の音も その名もたかき仙人のあと
よりて見しいにしへ人の言の葉に かけて名高き瀧の白いと
此瀧をけふきて見れはきて見けむ いにしへ人のおもほゆるかも
1796年 桜本坊快済法印による菅生寺復興
快済法印像(「よしの龍門の古刹菅生寺」より)
御室御所の懇請を請けた桜本坊五十一世快済法印により荒廃していた菅生寺が再興され、未曾有の繁栄時代を迎えました。
1818年 龍門騒動起こる
龍門騒動
江戸時代末期の文政元年(1818)、重税に苦しんだ龍門郷14カ村の百姓たちが結束して百姓一揆を起こし、平尾の代官所を襲撃、浜島清兵衛代官を殺害するという事件が起きました。参加した14カ村は、小名、柳、香束、平尾、西谷、峯寺、志賀、滝畑、立野(以上吉野町)、西増、比曽、持尾、岩壷、矢走(以上大淀町)、旗本の中坊氏の支配地でした。当時、山口や佐々羅は天領(幕府領)だったので参加しませんでした。参加者は奈良奉行所で厳しい取り調べや拷問を受け、6人が牢死したと伝えられています。
1920年 出口王仁三郎が龍門岳にて神事「龍門開き」を行う
大正9年(1920)5月、大本教教祖出口王仁三郎が90名の弟子とともに龍門岳に登り、「御神事・龍門開き」を行い、大宇陀の大蔵寺住職・丸山貫長から「如意宝珠」を渡されました。
1920年 植村諦、龍門小学校に代理教員として赴任。
奈良県磯城郡多村(現・田原本町)出身の詩人・植村諦(1903-1959)は、18歳で龍門小学校に代理教師として赴任、ルソーの「エミール」を規範として自由教育を実践し、教え子のひとりだった池田克己に強い影響を与えました。1924年には龍門村安楽寺の住職にもなりましたが、1927年に水平社運動にかかわったことで教員と住職を辞職、朝鮮の京城に渡り、抗日運動に参加、アナキストとして活動を開始、帰国後はアナキスト詩人として作品を発表しました。
1945年冬 池田克己上海より帰郷。「村落より」執筆
写真提供:山下孝生氏
1945年8月上海を脱出した池田克己は、途中共産軍の襲撃にあい二発の銃弾を受け、11月に帰国、吉野に帰郷しました。そのときに、故郷の風景を11編の詩としてまとめ「村落より」と題し、昭和23年に出版した「池田克己詩集」に収録しました。
1962年 津風呂ダム完成
1983年 三條妙節師による菅生寺昭和大復興
写真提供:菅生寺
江戸時代よりふたたび無住となった菅生寺は戦中戦後の混乱でさらに荒廃していたが、昭和52年托鉢修行に龍門に立寄った三條妙節師は、夢のお告げで「この近くの山際にある古寺を復興してほしい」とたのまれ、私財をなげうって復興し、昭和58年4月21日普山式がおこなわれました。
